I am.

日々思ったこと、した事を適当に

偽善者について

【偽善者】

偽善者という言葉、皆さんどうお考えでしょうか。

難しい話題だと思うのですが、あえてなんとなくこの事について語りたいとそう思います。

『善とは何で、悪とは何か』というとてもとても深い話が前提に存在しなくては、偽善については語る事ができないのです。

ただし、偽善者というものと、偽善では語られる物に対するカテゴリーが違うと考えており、偽善者ならば、偽善者の行ったなにかしらの善という形で話を進めるために、善と悪とは何かを語らずとも、偽善者に対して語ることは可能だと考えます。

ただ、私はその道の専門家でもないので、個人の一意見だという程度に収めてください。

私の場合、偽善者については一定条件の下では、非難されるべきであると考えますが、一様に非難されるべき人間では無いと考えます。

良い印象か悪い印象か、はたまた関わりたい関わりたくない様々だと思います。

ただ、昨今の社会あるい集団においては悪印象が強い言葉であると私は考えます。

なぜなら、偽善者という言葉を他人に向ける時、その時というのは裏切られたと感じた時なのだと私は思うのです。

つまり、裏切られた側は、その他者に対して非難する言葉として使われる場合が大多数であるからにほかなりません。

 

【偽善者の種類】

偽善者の種類には幾つかあると私は考えています。

私が今パッと思いつく中では大体これぐらい。

 

  1. 単に偽善者を評価する人間における善の定義が、偽善者と呼ばれる側の善の定義が違う場合(受け手と発信者の個人の主観の押し付けあい)
  2. 善行を働いた末に、その人間が利益を得ている(利己性を伴う善)
  3. 2にプラスして、自分のみが利益を得、他者は損をしている場合。(利己的な善)
  4. 善行を働こうというプロモーションのみしか行わない(口だけである)

順に考えます。

 

1.単に偽善者を評価する人間における善の定義が、偽善者と呼ばれる側の善の定義が違う場合(受け手と発信者の個人の主観の押し付けあい)

この場合において、最も考えなくてはならないのは、評価する側と偽善者と呼ばれる側双方の意見の歩み寄りこそが大切だと思うのです。つまり積極的な話し合いがなされておらず、また積極的で有意義な話し合いをする為には、善意の方向性や、あらゆる価値観における善について常日頃から考えた上で、見識を広げておく必要があります。

 

例えば、

「相対的な価値観による人間の意見ならば、恐らくこう出るであろう。また、絶対的な価値観における人間の意見ならば、こうだろう。」

といったように、「普段からこの立場の人間なら、こう答える。ならば、その意見に対してどの様に答え、またどの様に話し合うか」をある程度、既に考えておく必要があります。

双方が正当性を持った意見を持つ場合、自分がこう思うといった主観的な価値観を持って相手を評価するのであれば、それは単なる自分の意見と違う者を排除しようとする悪質なレッテル貼りに過ぎません。何をもって善とするかを常日頃から考えていない場合、その事自体が一番悪い事と言って良いかもしれません。

 

少なくとも、自分と逆の意見を持つ相手に対して、何故その様に考えたかという事を尋ね深く理解した上で議論する必要があり、この場合に双方が相手を偽善者とレッテル貼りする事は出来ないと考えます。

 

単なる価値観の違いによる意見の相違は、善悪の二極では語りえず、もう少し複雑なものとなるでしょう。

 

2.善行を働いた末に、その人間が利益を得ている(利己性を伴う善)

この場合も、これをもって偽善とし、それを偽善者と呼ぶ場合があるように思います。

この事については、

  • その善によって救われる者がそもそも居るかという事
  • 本人が善行を行う前に、その行動後の状態を俯瞰視できたかという事
  • 還元される利益の利己性を本人が認めた上で、その善なる行動を行わないよりは行う方が良いと考えたか

例えば、私の様にひねくれた者がボランティアの人に声を掛けたとします。

 

私「ご苦労様です。」

ボランティア「はい、どうも」

私「お金もらえないのに、そんなお仕事をしていて苦にならないですか?」

ボランティア「ええ、私が仕事をした上で皆さんが喜んでくれるのなら喜んで」

私「でも、それって結局、自己満足じゃないですか?」

 

こういう会話があったとします。ここで、このボランティアの方が、肯定する事ができる場合には恐らく偽善者と捉えられる余地が消えるでしょう。

なぜなら、肯定した場合のボランティアの意見は、

「利他的な奉仕の原理は私の自己満足にある。しかし私の自己満足によって、他者もまた報いを得られより幸福にするのであれば、私はその自己満足のこれをしないよりは、したほうが良いであろう。副産物的に得られる社会的称賛等があったとしても、それはそれで良い。」

という善が立証されるからに他なりません。

もし、否定した場合、ボランティアの行動原理には矛盾が生まれます。

「利他的な奉仕の原理は他者のみを幸福にするものである。よって、私は善人であり、私は何も受け取っていない。そして私は私によって行動しているわけではなくこれを行っている。」

ずいぶん違うと思うんですね。

つまり、

善を行おうとする気持ちの中で、自らの利己性を認めた上で、他者を幸福にする行為を自覚していて、その上で行っている行動に対して他者は偽善は認められない。

が、

善を行おうとする気持ちの中で、自らの利己性を認めず、完全なる利他的な存在であり、何も受け取る事はなく、同時に受け取っていない。

というのは大きくこの意見に嘘が認められ、傲慢であると言って良いでしょう。

しかしながら、行動を起こした結果というものを語るのでは両方共ほぼ同じ結果が得られるでしょう。つまりボランティアという活動によって活動の結果はそこに残されるでしょう。

 

総評するなれば

この場合、善・悪・偽善に対して、行動を行った側の意義が尊重される

と考えます。

つまり本人がどのような意義を持って行動を起こしたか。それによって責められるべくする場所がそもそも違うという形ですね。

 

3.2にプラスして、自分のみが利益を得、他者は損をしている場合。(結果的な利己的な善)

この場合、そもそも善であるかが疑わしい様に感じられるかもしれません。

これは意義を自分のみが利益を得る場合として想定するのではなく、結果的にこうなった場合の事でそこにフォーカスしましょう。

 

例えば、

放課後勉強がよくできると評判のA君は、友人たちと集まり友人宅で勉強を教えたとします。

やがて友人の親が帰宅し、A君に勉強教えてくれてありがとうと告げ、A君にお礼としてお菓子を渡しました。A君は大喜びです。

次の日、A君が勉強を教えた友人たちは揃って先生に呼び出しを受け怒られていました。理由はA君のノートをそのまま写し取ったかのような内容がノートに書かれており、その事が問題になった為です。実際は写してなどいないのですが、写したと評価されその様な事故を招きました。

 

この場合だとどうでしょうか。

A君の善意によって、友人たちは不幸な目にあい、A君は称賛とお菓子という益を手に入れました。

つまり結果として、A君の善意はA君の意思に反して、A君のみが実益を得て、他者を不幸にする原因として機能しました。

この場合にA君を責める事ができるでしょうか。

私は出来ないと思います。

これも2のパターンと似たように、A君の行動意義に基づき判断せざるを得ません。

結果はどうあれA君を責める人間は恐らくいないでしょう。

 

4.善行を働こうというプロモーションのみしか行わない(口だけ)

この場合はいままでの3パターンとは大きく違う事があります。

彼は

「何も行動を何も起こさず、善行を働く・働いていると声を上げる」

とだけ口によって述べているだけで、誰一人として救う事はできていません。

これに関しては偽善と言って良いでしょう。

自らの行動と異なる言葉を述べた上で、また自らの称賛を得ようとする一心によってのみ行われた幼稚な発言にほかならず、同時に嘘も紛れている故に酌量の余地はありません。

 

 

結論

つまり結局偽善者とは、本人の嘘を基準に評価される存在なのだと考えています。

偽善の意義とは、個人の称賛や益を得る為という極めて自分の為に行う行動で、そもそもそれを意義として行った行動に、他者の為にといって意義とは反した嘘の言動を行う事なのだと思います。